2016年6月4日土曜日

文豪の小説を、ちょっとだけ読む

ほげ子さんは、塾で、夏に向けた課題をもらってきました。

そのなかに、文豪の作品を、250頁以上読む、というのがあったので、さっそく、家族で音読会をすることにしました。

昨日は、おかーさんが、芥川龍之介の「鼻」の前半を朗読。


今日は、ほげ子さんが、太宰治の「人間失格」の、第一の手記の冒頭を数頁分、読んでくれました。聴衆は、おねーちゃんと、おかーさん。



 恥の多い生涯を送って来ました。

 自分には、人間の生活というものが、見当がつかないのです。自分は東北の田舎に生まれましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊技場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。

  (中略)

 また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住には困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱり分からなかったのです。へんな言い方ですが、おなかが空いていても、自分でそれに気づかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口に放り込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。


  (中略)

 つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、ということになりそうです。


太宰治 「人間失格」  



 言葉がだいぶ古いですが、太宰の文章はとても読みやすいので、ほげ子さんも、ほとんど苦労なく読んでいました。



 読んでから、少し、感想を話し合いました。

 ほげ子さんは、昨日読んだ、芥川の「鼻」と、太宰の「人間失格」をくらべて、


「太宰のほうが、自分のほんとうの話を書いている分だけ、強い人のような気がした」


と、言っていました。


「人間失格」を全部読むと、このお話がフィクションとして書かれていることが分かるのですが、内容が、小学生にはちょっと厳しい、救いのないものなので、大人になって、いつか思い出したら、全部読んでみてほしいかなと思います。

ちなみにおかーさんが「人間失格」をまともに読んだのは、三十歳を超えてからでした。当時二歳くらいだった、おねーちゃんが、なぜか本棚から「人間失格」を抜いてきて、読んでとせがんだからです。



それにしても、Kindle版の、人間失格 いま、文豪ストレイドッグズのキャラがカバー絵になってるんですね( ̄。 ̄;)。







思わず買いそうになりましたが、ぐっと思いとどまって、青空文庫版(無料)をダウンロードしました。



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